横綱の品格をスポーツの価値観で裁く事に意味など無い

  09, 2017 12:16
2017/09/15更新




大相撲はスポーツではない


-相撲はスポーツでなく道なのである-

白鵬も秋場所休場 3横綱不在、昭和以降で初 日本経済新聞

相撲を「道」とみるか、「スポーツ」とみるかで、各々、判断が分かれるのではないのか。「スポーツ」とみるのなら、休場は妥当な判断と言えるだろう。が、「道」とみるなら、休場に対しても厳しい意見が向けられる。

僕も学生時代、サッカー、バレーボールなどの競技に打ち込んでいたから、怪我の怖さも身に染みて理解している。いまだに右足が少し違和感がある。この怪我はバレーボールにおけるブロック時に相手の選手の足を踏み、くじいてのものだ。この程度の怪我でも一生モノなのだ。

アスリートにおける怪我とは僕のそれとは比較にはならないだろう。大怪我をすれば、食い扶持を失う。アスリートの大怪我は死を意味する。ただ、大相撲では、これらの価値観で判断すると見誤る事がある。やはり、「道」で判断しなければならない。

「道」.....精神性を重んじる。 理想的・非合理・唯心的・歴史・伝統・文化.....を重んじる。つまり「心」「過程」重視。
「スポーツ」.....物質性を重んじる。 現実的・合理的・唯物的・経済・効率・文明.....を重んじる。つまり「モノ」「結果」重視。

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もう少しいうと、「道」を追求することこそ、横綱の「品格」となる。



横綱の「品格」とは


-「道」と「スポーツ」の違い-

「道」と「スポーツ」の違いだと思う。当然、相撲道なのでスポーツではない。

「道」においては、「勝つ」だけでは駄目だ。己の心身を鍛える事が「道」で重視される価値観で、「スポーツ」のように相手を打ち負かす為にするものでもない。当然「スポーツ」のように金と言った物質性の為に己を鍛えるわけでも無く、己の心身向上が全てと言った精神性を重んじている。つまり、心を重視する。

そもそも、日本は明治時代に欧米的資本主義を導入し、近代化を成し遂げたと言えるが、明治の時点で日本的価値観が蔑ろにされ、相撲の「道」の部分も死んだと言える。資本主義により近代化したと言う事は、合理化し現実的に物事を捉えなければならず、その様は唯物的ともいえる。

つまり、精神性無視の事なのだが、精神性無視の時点で「道」は死ぬ。当然「相撲道」とは当時の「武士道」と同じく、徳目と言った学問になってしまい、全く当時の人々ですら即さなくなった。

現在における、プロ野球の某球団のような、「紳士たれ」と「品格」は同じくらい出鱈目で、何の事か分らず吹聴されがちでもある。そもそも、明治時代においても学問レベルの「武士道」なら、もう現代人には絶対に理解されるはずも無い。

当然、理解してない者が言う「品格」に品など無い。「紳士」とは「武士道」由来である。おなじく「品格」とは「武士道」であると言っていい。

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-主に外国人力士が狙われる-

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毎度、外国人力士が批判にさらされている感がある。

大相撲とはヒール役外国人力士に挑む日本人力士と言った構図で成り立つのか。毎度毎度の「品格」での議論をエンドレスで続けているように見える。これをマッチポンプで続け、今に至っている。

一般的に、これをプロレスと揶揄するのだし、もう、相撲に「道」の部分が失われつつある。相撲も利益優先なのである。「道」とは金の為でないはずだ。金を稼ぐには、合理的である事、現実的である事。「道」とは真逆だ。


-なかなか深まらない理解-

この一件が問題だとして、「品格」を定義づけるなり、明文化しなければ、エンドレスな議論になってしまう。主にネットの相撲関連における意識高い系以外「品格」などの理解は深まらない。

「女性の品格」や「国家の品格」と言った本が売れた位なのだから、なんの事やら層がメインなようだ。まだ、これらの書籍に目を通す意識の高さを持ち合わせているのであるのなら、それらの人々は大丈夫とも思う。

が、「品格」など興味も素養も無い人々が多数だとして、メディアで騒いでいるからと鵜呑みにし、ご近所さんと話したいだけの層。参加した感に浸りたいだけの、つまり、これはB層なのであるし、この点が問題とも思う。

 


-逆手に取っているかもしれない-

まともに「品格」についての素養がないから、メディアの喧伝する文言にまる乗っかりで判断するし、なお後からダメ出しをしてでも、自分勝手な横綱像に当てはめて騒ぐ人々が出てくるのも当然である。

相撲関係者は知っているのでないか。「品格」を定義付けない方が、明文化しない方が良い事くらい。当たり前である。外国人力士にヒール役を担ってもらい、エンドレスの相撲興行が出来なくなるからだ。ただ、これは「道」でないのだが。

そもそも、日本人自体に保守思想。つまり、連綿と続く古き良き歴史や伝統文化と言ったモノを尊重している者がどれ位いるのだろうか?

マックでハンバーガーをコーラで流し込みながらの相撲談義とは何の事なのかとも思うし、相撲とニコニコ動画を連動したりする事は日本の伝統文化を無視していないか。

相撲ですら保守思想で理解しようとするのが限界になっているようだ。ファンはおろか力士ですら理解していないかもしれない。


-外国人差別と混同してはならぬ-

外国人差別の話ではない。相撲を「スポーツ」と考えるのなら強い事だけが正義であるのもわかる。ただ、相撲道であり「道」が大事だ。「結果」だけでは意味がない。「過程」に価値をみいだす。

保守思想は、明文化すべきでないと思うし、出来るはずも無い。それは、文言といった、情報にしてしまうと物質的なものになってしまう。物質性重視とは精神性無視であるから、保守的と言えない。心無視である。

当然、相撲関係者もその事は理解している。だからこそ、明文化しないのかも知れない。そして、しても何も良い事も無い。つまり、それは保守思想からも乖離するうえ、興行という現実的、合理的判断からなのかもしれない。精神性と合理性がせめぎ合っていて辛いのではないのか。

そして、世論の成熟待っているのかもしれない。保守思想とは普遍的である。


-武士道に由来する相撲道-


明治時代に死んだ「武士道」が源泉だったとして、当時の人々ですら学問と言う知識でしか「武士道」や「道」を認識できなかったにも関わらず、何時まで、権威としての「相撲道」を現代人が吹聴するのか。

相撲好きだけに限らず、あらゆるスポーツ好きも、やりがちであるが、相撲好きが投げかける「ニワカ」など、権威をカサに着て、実は、あまり理解のない自分を誤魔化しての批判ではないのか。

相撲観戦歴うん十年...も余り意味もないかもしれない。相撲が好きで相撲の勉強、観戦をしても、何一つ「品格」についての理解が深まらないなら、やはり「道」は死んだ。もう、「スポーツ」なのだろう。

何故、日本人自身が持ち合わせてない価値観を、外国人力士にだけ求めるのか。いや、日本人力士にも言える事なのだが、「道」と言った価値観は学問と言う、現実的、合理的なところになってしまった。これは精神性無視である。やはり「道」は死んだ。

保守思想、つまり「道」でも「品格」でも「紳士たれ」でも良いのだが、学問になった時点で現代日本人は持ち合わせていないと言える。

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武士道 保守 スポーツ B層 相撲 保守思想 精神性 物質性 品格

2 Comments

Sat
2017.09.16
18:52

もち  

道とは心、勝ちとはモノなんですね。

2017/09/16 (Sat) 18:52 | REPLY |   
Sun
2017.09.17
10:08

take0606  

こんにちは。そうです、道とスポーツの違いですね。相撲と野球との違いとも言えます。

過程が重視の相撲と結果重視の野球とも言えます。

そして、心身を向上し、尚且つ強い事こそが相撲では大事であり、その最上位、最上級が横綱です。強いだけでもダメなのが相撲なのです。その事を品格と言いますし、心身向上と密接であります。

結果重視の野球が紳士と言い出すのは謎ですし、サムライも謎です。

紳士とサムライと品格と道とは同様の価値観であり、精神性を重んじることでもあります。

長々書いてしまいました。すみません。では、また遊びにいらして下さいね。

2017/09/17 (Sun) 10:08 | REPLY |   

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