都会でこそイジメがうまれる。自然への回帰は逃げじゃない。

17/09/03更新




人間は本来自然な生き物である

昔の日本の人々は、対人間だけでなく向かい合う対象が多かった。今より自然も多く、其れこそ、虫を追っかけたり、飼っている犬猫や、馬が居たり、牛、豚、にわとり.....と、田舎など行けば、それは沢山の動物が身近であった。当然、自然が多いのだから、植物も豊富で花や草木、果物の実なども採れたりもする。農業を営めば、天候を気にしたり、気温、湿度.....云々。牧畜でも同様である。まぁ、兎に角、気にする対象が多く、対人間以上に対自然と向かい合わなければならないし、そうしなければ生活ができない。つまり、人間を構っている場合ではないのである。

それは、自然とそうなるのだが、都会の人間は不自然な位に対人間に向かい合わなければいけない。当たり前の事であるのだが、そもそも、都会には自然が無い。当然、対人間に不自然な位に向き合わなければ生活ができない。その位、自然が無いところで生活するのは不自然で、その暮らしに耐えきれなくなるものから、次々と不自然な行動をとりだすものがでてきてしまう。

都会の人間のストレスの由来のほぼほぼが自然の無い不自然さにある。不自然な位に人間に向かい合わなければいけない都会の不自然さが人々のストレスを生んでいる。

本来、子供とは自然そのものである。生命力に満ち溢れている。一日中走り回っていても元気だ。 ただ、これも、古い価値観になってしまった。不自然な価値観になってしまった。都会と言う不自然で生活する子供から自然である事が無くなってしまったらしい。もう、僕の価値観が不自然なようだ。




都会とは物質性の世界。「心」などはない

僕は小さいころからビルが好きだった。池袋のサンシャイン60は祖父に連れてってもらった。西新宿のビル群も素晴らしい。成人になってから東京に出てくるのだが、横浜に住んでいた頃はランドマークタワーが誇らしく思ったものだ。どれもこれも良い思い出だ。ただ、僕にはもう当時の様な気持ちは微塵も無い。

都会とは、全て人間の思い通りにつくられたものである。公園ですらそうだ。人間の手で意図的につくられた「モノ」は自然ではない。幾ら緑に溢れていても、それは自然ではない。一切ない。不自然である。

新宿中央公園と言うものがある。新宿区立の公園としては最大の面積を誇る都市公園だそうだ。東京都庁を始め、そびえ立つ高層ビル群の中に、大都会のオアシスとして多くの人々の親しまれている。

ただ、これも自然ではない。人間が意図的に自然風味の「モノ」を人々に提供している不自然である。先日、用事があり、この公園に立ち寄ったのだが、元気いっぱいの小さい子供が駆け回っていた。自然はそこには確かにあったが...。


「都会」.....物質性を重んじる。 現実的・合理的・即物的・唯物的・経済・効率・文明.....を重んじる。つまり「モノ」であり「左翼的」

「自然」.....精神性を重んじる。 理想的・非合理・観念的・唯心的・歴史・伝統・文化.....を重んじる。つまり「心」であり「保守的」



「都会」をありがたがり「自然」を蔑ろにしすることは、「モノ」を大事にし「心」を無視することである。「心」を無視しつづければ、「心」だって不貞腐れる。


「モノばかり見てないで、俺をみてくれよ!って」


蔑ろにされ続けた「心」は腐りはじめる.....こころを病んでいく。様々な心の病も、自然が無い不自然が由来する。「物質性」優位な社会では、幾らお題目を掲げたところで、だれ一人の「心」も救えやしないかもしれない。




もう、自然は何処を探してもないかもしれない

今の日本で自然が無いのは、都会だけの問題でなくなりつつある。自然とは太古の昔から脈々と受け継いだものを、人間の手を加えず残したものの事を言う。都会が不自然である事は言うに及ばないが、田舎ですら不自然なのである。



スタジオジブリ制作の劇場アニメ作品「おもいでぽろぽろ」



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ジブリアニメ「おもいでぽろぽろ」なのであるが、主人公、岡島タエ子と山形で農業を営むトシオの劇中で最も印象的な台詞を紹介したい。


タエ子
「あー、やっぱりこれが田舎なのね。本物の田舎、蔵王は違う。」

トシオ
「うーん、田舎かぁ。」

タエ子
「あ、ごめんなさい。田舎、田舎って。」

トシオ
「いや、それって大事なことなんですよ。」

タエ子
「え?」

トシオ
「うん、都会の人は、森や林や水の流れなんか見で、すぐ自然だ自然だってありがたがるでしょう。でも、ま、山奥はともかく、田舎の風景ってやつは、みんな人間がつくったものなんですよ。」

タエ子
「人間が?」

トシオ
「そう、百姓が。」

タエ子
「あの森も?」

トシオ
「そう」

タエ子
「あの林も?」

トシオ
「そう!」

タエ子
「あの小川も?」

トシオ
「そう!!、田んぼや畑だけじゃないんです。みんなちゃーんと歴史があってね、どこそこのヒイじいさんが植えたとか、ひらいたとか、大昔からタキギや落葉やキノコをとっていたとか」

タエ子
「ああ、そっか!」

トシオ
「人間が自然と闘ったり、自然からいろんなものをもらったりして、暮らしているうちにうまいことできあがってきた風景なんですよ、これは」

タエ子
「じゃ、人間がいなかっったら、こんな風景にならなかた?」

トシオ
「うん、百姓はたえず自然からもらい続けなきゃ生きていかれないでしょう?うだから、自然にもね、ずーと生きててもらえるように、百姓のほうもいろいろやってきたんです。まぁ、人間と自然の共同作業っていうかな。そんなのが多分田舎なんですよ。」

タエ子
「そっか、それでなつかしいんだ、生まれて育ったわけでもないのに、どうしてここがふるさとって気がするのか、ずーっと考えてたの。ああ、そうだったんだ。」


トシオは自然とは何かを理解している。自然と向き合い、自然に敬意を払い感謝し日々を送っている。対人間以前に自然由来であるからこそ出てくる発想かも知れない。都会に暮らす人間では及ばないのである。




IT時代がより人に執着させる

IT時代である。SNSでコミュニケーションをとる時代である。不自然である。僕も自覚がある。いい年したオッサンが暗闇の中に灯るディスプレイを前にカタカタ徹夜である。それは不自然。人に面と向かって言えばいいのに、不特定多数に呟く不自然さ。事情があれど大統領がディスプレイに呟く不自然さ。兎に角不自然である。

そして、この不自然さも、本来、自然であった子供にも向かってくる不自然。都会に自然であることを奪われ、なお、IT時代が不自然さに追い打ちをかける。子供も自然であることは出来ない。そして、大人と同じように、耐えきれなくなった子どもから不自然な行動をとりはじめる。

イジメである。イジメとは不自然由来である

イジメとは、子供だけの問題でもなく、様々なところで見られる。IT・SNS時代と言う不自然さがより、他人の一つのミスも許さない風潮をもつくってしまった。 人間という対象だけしか気にもとめない都会と言う不自然に、自然に追い打ちをかけてしまった。

都会には自然が無い。自然が無いから不自然な位に人間にしか興味もわかない。当然、不自然な位に人を追い掛け回すストーカーをも生む土壌すらつくってしまう不自然さ。




本当は、自然である事の価値を知っている

僕が住んでいる街の猫専門ペットショツプが大人気である。かわいい子猫が沢山いて、人だかりになっている。人間は本来自然が好きだ。

自然そのもので、生命力に満ち溢れるものが好きなのである。自然な価値観だ。 ただ、もう自然など無い。

人間にしか興味も湧かないものは、不自然な位に思い通りにならないことを許せない。 本来、思い通りにならないことが自然なのだが、そんな事もわからない不自然さを彼らは有している。 思い通りにならない対象には、時にストーカーになり、時にSNS等では批判をトコトンぶつけ、ぶちのめす事だけに価値を見出してしまう不自然さ。

自分の不自然さを顧みず、ストーカーになりSNS等で批判を繰り返す者は同根であり、不自然さが由来している。イジメとも同じで、全て、不自然が由来しているのである。


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