自由における責任と義務と権利そして小出恵介


img_6b07da8ef8a7988c1f3cf2358fd2c6d0fd6cb5bb_detail.jpg




自由には必ずしも責任が伴う

所属事務所アミューズが小出恵介に責任と義務を問うたみたいだ。当然、アメリカ由来の価値観を日本は全うしている中で、その価値観において自由には必ずしも責任が伴い、権利には義務も果たさなければならない。そして、新自由主義においては自己責任論となる。

当然ながら、小出も自己責任を問われる。しかし、自由の元、ネット民がその女子高生?を吊るし上げたとして、其れはもう女子高生そのものが自由を全うした上での責任問題であるから、問われるのはもはや権利を行使した上での義務である。勿論、逆にネット民も自由に発言したならば、それなりの責任問題となるのは当然で、発言するという権利を行使したことに対する義務を果たしてこそ、対象に物申すべき。

これらの事、メディアも事務所も芸能界全てにも漏れ無く問われなければ、其れこそ彼らの喧伝する自由とやらは大嘘である事を示していて、だからこそ、権力者が言う自己責任とは、貧乏人や弱者を縛り付ける為だけの言葉なのか?と問いたい。



報道の自由に対する責任論

勿論、小出も責任を問われるのは当然のこととして、女子高生?も責任、義務を問われる流れになっているし、彼らが各々の自由を謳歌したならば当然だとは思う。

しかしながら、メディアと言うものは常に権力側であり、その権力を行使して他者を貶める事を嬉々として行うが、転じて己自身に降りかかる批判に対しては一切責任を負わず、そして、義務を全うしない。そのくせ報道の自由とやらの権利だけは主張する。

小出問題とはズレているので必要以上には言うつもりはないが、例えばこの女子高生?が悪かったとするよ。でもね、この子の生活や家庭環境が劣悪であり、なおかつ社会環境や社会の価値観において、この親子の境遇には目をつぶり、少しでも助けようともされずに今に至ったとして、ネット民そのものが強者の論理である自己責任論をこの親子に投げかけるのだとしたら、何故その言葉自体が自分たちにも投げかけられるかも知れないとも考えられないのか?

其れ程、ネット民は権力者側なのかとも思うし、だからこそ常に発言した言葉自体を自分自身にも投げかけられないかも知れないと、疑心暗鬼になりながらでこそで、吐いた言葉自体己自身に投げかけている事と同意なのだよね。



物質性価値だけが全てでは無い

当然、「物質性」価値だけが全てでは無い人間もいる。現代日本人が大事にしていて、なお絶対的な価値であると信じ込んでいるものが「物質性」だとして、それに対し、其れらを否定し「精神性」を重んじていこうと信じ生活している人間も居る。

つまり、何が言いたいかと言うと、小出が女性に対して物資的な部分を求めていたならば、もう少し言うと、若さなり可愛さ、そして身体だけを求めていたのだとしたら、当然、女性からも小出に対して物資的な部分を求められたのが、この件の結末。これは小出自身の女性観が招いた結末とも言える

これは、現代日本人誰にでもあり得る話で、「物資性」優位な価値観が今の世界なのだとしたらなおさら、この件においても他人事とせず、己にも持ち合わせている価値観であるから、その価値観自体を精査し直す機会かも知れないと思って事の顛末を見ていきたいと思うよ。


このエントリーをはてなブックマークに追加

関連記事

Comments 0

Leave a reply