大衆化とは陳腐化らしい。 ゆず『ガイコクジンノトモダチ』炎上からみる、表現物の不自由

take0606

2018/04/27更新
33312.jpg



B層問題を解決すれば問題ない

大衆化とは陳腐化



 の一件でも示してしまいましたが、いわゆる“右左”といったものが問題なのでは無く、自由な表現を許さない消費者の不寛容さに問題があるように思います。

 また、その不自由な発想と対象を理解する素養の程度の低さが表現物をつまらなくさせていますし、そのような、つまらない消費者を対象に作品を作らなければならないのだとしたなら、表現者の窮地だといえますね。

 たとえば、“ロック”の本質が、自身の精神性を追求し、囚われること無く自由に表現することなのだとすると、ゆずの『ガイコクジンノトモダチ』といった作品は、自身の心のあるがままを追求した様から生まれた作品と言えるかもしれない。

 僕程度の人間が、『ガイコクジンノトモダチ』を音楽的に云々することなど、できもしないしその素養も無いが、もし、いわゆる“テレサヨ”がゆずを「ネトウヨ」とレッテル貼りをし、批判を展開するのだとしたなら、末期症状に思います。



テレビ放送が大量生産したB層に問題あり


 れらの問題とは、テレビ放送が大量生産したB層により、テレビそのもの、または表現物をつまらなくさせ、結果、テレビ局自身の首を絞め、かつB層由来の“ネトウヨ”または“テレサヨ”が、自身の素養を顧みず、無根拠に対象を批判することによる陳腐化とみています。

 つまり、テレビ放送が大量生産した大衆が、陳腐なロジックで批判を繰り返し、表現者の自由を奪い、または、あらゆる対象の自由を奪い、表現や発言を硬直化させている問題と言えます。

 陳腐化とはテレビ放送が陳腐すぎることから生まれた問題と言えそうです。

 なので、テレビなど捨てちまえ!となります。おしまい(^_^;)



「モノ」から「コト」とはSNS時代らしい発想


 味や価値のありそうなモノも、大衆化すると陳腐化し取るに足らない、つまらないモノとなる。

 新しい価値が生まれては陳腐化し、また、それを繰り返していくものでもある。

 インターネット時代となり、PCで意味や価値のありそうなものも複製され、なお意味や価値もありそうなテキストを書いていた人々の言葉も、SNS上で陳腐化し続けていく。

 つまり、言葉そのものが陳腐化していく事と同意であり、意味や価値のありそうなものとは、陳腐になっていくモノでもある。

 そして、それは文言よりも行動ありき、「モノ」から「コト」と言った、SNS時代らしい発想となっていく。

 言葉とは大して意味もないのかも知れない。

 SNS時代では、誰でも発信できるようになり、なお、意味や価値のありそうなものはコピペで瞬時に拡散される。そして、瞬く間に平均化されweb上に飲み込まれ、陳腐化されていく。

スマホ・タブレットは消費型


 値のありそうなモノとは多様であり膨大に情報として存在する。

 コンテンツが膨大になるほど、その多様で膨大なモノから、自分が本当に求めているもの、必要なものを探し出すことが重要となる。

 本来、大衆とはコンテンツを作り出す側にいるのではなく消費する側にいる。それは、使用する端末がPCよりもスマホやタブレットに代わっていく事が端的に表していて、生産から消費にシフトした事からも現れている。

 つまり、スマホやタブレットとは消費型端末であり、消費された途端にコンテンツは陳腐化する。コンテンツの価値や質を維持し続ける事の難しさとは、そのまま異様に加速度のついたインターネット時代が理由と言える。



知行合一とはSNS時代だから必要


 葉が価値を失いつつある。

 言葉は瞬時に陳腐化される。ただ、それは陳腐な言葉を吐くことに問題があるのでもなく、「知行合一 (ちぎょうごういつ)」できない事の問題でもある。

 つまり、言葉と言った情報は、web上に拡散されるだけでは意味がなく、思想と言った自分自身の価値観を磨くこと、生きる知恵を磨くことをしてこそ、言葉に意味も価値も生まれる。

 また、いきよう、ありように反映させてこそで、それは、知行合一(ちぎょうごういつ)にも、適う話である。

 知行合一とは...「知は行の始なり、行は知の成るなり」 行動を伴わない知識は未完成である事を示す

 言ったならやれよ。できないなら言うなということでもある。

関連記事
このエントリーをはてなブックマークに追加

Comments 0

There are no comments yet.

Leave a reply