高校野球は「道」か「スポーツ」か。ただ、高野連はブレるな!

17/10/13更新

甲子園







高校野球は学生スポーツ


■マスメディア売上至上主義の被害者


-お題-
清宮最後の夏はオール神宮を検討!フィーバーを考慮
広岡達朗氏が清宮幸太郎の体格に「走れない選手はプロでは使えない」と苦言

スポーツメディアらしいね。上げたり、落としたり、煽ったり。メディアのアクセス稼ぎに、いちいち真に受けてもしょうがないですけれども、僕も興味があるので、この話題に乗っかりますね。

高野連が自ら、学生スポーツであると言う大前提が如何にも欺瞞である事を示しました。これは、たとえ野球ファンだとしても、高校野球の存在の矛盾を受け入れていくしかない。この事、幾ら正当化したとしても、他スポーツ、他学生スポーツ選手からすると、何をかいわんやなのではないか。とはいえ、高校球児には罪は無いのだから、批判に晒されるのはおかしいし、それこそ、清宮云々はお門違い。

プロ野球にせよ、もう少しいうと、大学駅伝にせよ、メディアとスポーツの関わり合いを我々も考え直したい。そして、これらの物との我々の付き合い方も同様だ。

スポーツとはメディアにとって、大衆に訴求するには都合のいいコンテンツなのだ。少なくとも、プロならば最低限理解する。ただ、学生にマスメディアが好む視聴率、売り上げ、部数と言った「物質性」価値観を要求するのは酷だし、間違っている。

需給がどうとか本気で考え、なお高校球児に求めるなら、高野連並びにスポーツメディアは偽善、欺瞞であることを示している。



■スポーツメディアと近すぎる


清宮に対する「人気があり過ぎる」から、他高校球児と比べ平等、不平等と言った話は、全てメディアが蒔いた種であり、其れこそ、清宮とは無関係。清宮や他の球児たちが野球に打ち込める環境を作ることこそが大事である。

一選手を、落としたり上げたりとメディアは煽り、売り上げとアクセス数稼ぎにご執心である。それは、ただただ、子供を食い物にしているようにしか見えない。



■学生スポーツはお花畑精神論の中


少なくとも、日本における日本の高校の生徒がひたむきに打ち込む競技であるはずで、大人の理屈であれやこれやしていいはずがない。当然、甲子園が檜舞台とか言う御題目で、選手に無理を強いるとか、おかしな話だし、もっての外。

そして、それ自体をスポーツメディアお得意のお涙頂戴とばかりにドラマチックに演出することにより本質から眼を逸らさせる作業をし、またもやメディア由来のマッチポンプで、感動系学生スポーツ大好きB層を騙すことに終始する。結局、学生スポーツは未だお花畑精神論の中で存在している。

外部リンク
高校野球に見る球数制限の是非
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保守とリベラルがせめぎ合う高校野球


■武士の商法になるからか


清宮最後の夏はオール神宮を検討!フィーバーを考慮

春王者の早実は、夏の西東京大会で第1シード。通常なら初戦の3回戦から5回戦まで八王子開催だが、球場一塁側スタンドの後方がせり上がった土手になっており、武井理事長は「外から丸見え。大勢が集まった場合、人が倒れる危険性もある」と指摘。

引用 - スポーツ報知

極端ではあるが商売ありきでないなら無観客でも出来るはず。予選もTVで放送する訳だし、例えば、プロサッカーですら懲罰としての無観客試合と言うのがある。

何故、アマが需給を気にし、プロが倫理を重んじるのか?そもそも、逆の発想の様な気もするが、どうやら、この点を踏まえても高野連とマスメディアが商売好きなのも理解できる。

ならば、その事、きれいごとで隠さず、球場の広告を隠す、隠さないだとか誤魔化しの正当化など情けないからやめて、公明正大に、「商売してます、毎度あり!」でいればいい。そうしたら、他スポーツファン並びに他学生スポーツファンの不平不満も減るだろう。



■高野連のスタンスは如何に


この件の反対派の主張は差異があれど、日本的な「精神性」を重視している。それは保守的である。そして、賛成派の主張は現実的、合理的である事を重視している。「物質性」の事なのだが、それは左翼的と言ってもいい。お互いの主張がかみ合うはずもない。

僕も、曲がりなりにも現代社会に身を置いて、賛成派の主張も理解する事もできる。が、それでも、駄目なものは駄目で、学生の時点においては、何であれ、徳目の部分を大事にするべきで、「物質性」を優位にするべきでない。つまり、現実的、合理的判断ではなく「精神性」を重んじるべき。



■連帯責任は封建制度の価値観


清宮最後の夏はオール神宮を検討!フィーバーを考慮
高校球児のタバコ、「連帯責任」は時代錯誤か 東洋経済

連帯責任について考えてみる。この考え自体、前時代的で保守的。連座と言う発想だと思う。今回、一見合理的な判断をしたように見えるが、連座などの不合理性で球児を断罪した過去を鑑みると、整合性が取れない矛盾。

連帯責任って発想自体は古臭い、保守的な発想だとおもう。ただ、自分が考えるに、寧ろ積極的にやれば良いと思っている。少なくとも、日本の日本的な高校野球というスポーツなら尚のことで、国際感覚やら、国際的な普遍の価値観など及ばない世界だとも思う。例え、高校野球古臭いね!ってウスラ馬鹿に言われても、半笑いで続ければ良い。



■高校野球は日本の神事なのか


なぜ女子マネは甲子園のグラウンドから"排除"されたのか〜高校野球は日本の「神事」!?

おそらく「とても日本的なもの」が根本にあり、「日本的なことは、言葉で説明されることがない」という事態が重なり、奇妙な現象となったのだろう。表面的な問題点は「高校野球は、頑として女性を受け入れていない」というところにある。

引用 - 現代ビジネス

この問題も馬鹿げてて、たかが、アメリカスポーツの野球ごときが権威づけようとしてんじゃねーよ!とも思うが。高校野球の「道」の価値観、つまり、日本的な感覚でもある、「神聖なグランドに女性を入れるな」ってのも発想も理解できる。ならば、とことん時代錯誤であれ、そのスタンスを高野連は貫けばいいとおもう。
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高野連よブレるな



ブレることこそ悪で、高野連、太鼓持ちリベラルメディアが大衆迎合する様が情け無く感じるし、平等がお題目のリベラルメディア自体が清宮を特別扱いする事は自己矛盾をはらんでいるのだが、その事に、気づいているのか、気づいていないのか。

だからこそ、高野連は高校野球が特別なものと考えているなら、尚のこと、世論を無視し、保守、左翼とぶれずに、我が道をいってほしい。リベラルメディアに近づくからこそ、高野連も迷走してしまう。つまり、リベラルメディアの主義主張に利用されたり、尚且つ、高野連に対しても、リベラルメディアの主張との整合性を、保守層に問われてしまう事に繋がっていやしないか?と思う。

保守思想とはブレないことである。変節しない、オトナである事。風見鶏で無い事。中途半端な「道」なら最初から言うな!である。



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