物事に熱狂するのを避けることこそ保守の在りようではないのか -保守であること-

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Bytake0606

2018/01/23更新
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三島由紀夫 - 檄



 「それは自由でも民主主義でもない、日本だ」

という言葉は、

四十五年前の今日、昭和四十五年十一月二十五日午後零時が迫る頃に、
市ヶ谷のバルコニーから三島由紀夫が森田必勝とともに、
バルコニーの下に集まった自衛官達に発した「檄」の末尾の一文である。
この訴えは、自決のまさに直前だった。
全体は次のように続く。
 
 「生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。
 生命以上の価値なくして何の軍隊だ。
 今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。
 それは自由でも民主主義でもない。日本だ。
 われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。
 これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。
 もしいれば、今からでも共に起ち、共に死なう。
 われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として、
 蘇ることを熱望するあまり、この挙に出たのである。」




三島由紀夫は、

「空に浮かんだような抽象的な自由や民主主義」

が、価値あるものとは考えてない。
われわれの愛する歴史と伝統の国、日本の根ざすところに
価値ある自由と民主主義が存在するものと確信していた。


まず三島由紀夫は、その根幹となる

「日本の歴史と伝統」

を阻害するものを打倒し取り除くことを一命を賭して、実践したのである。




「日本の歴史と伝統」を蔑ろにし続け、
なにより「自由と民主主義」が第一と疑いもせず、
無批判、無根拠に欧米を第一とばかりに信じ続けて其処に何が在るのか。


先達が、「日本の歴史と伝統」を守り抜くために命をとして
「自由と民主主義」の悪意と戦ったのは何の為なのか。


彼ら先達の想いも汲取れず、何が保守なのか。保守とは何を保守する為の思想なのか。

欧米の価値観を保守する為のものなのか。

「日本の歴史と伝統」を蔑ろにし続けてきた
「自由と民主主義」を保守する為のものなのか。





何故、保守である人間が、真っ先に米国を疑わないのか。

現実合理の判断からと理解したとしても、忸怩たれとも思う。
忸怩たる思いで向き合ってからこそ先達の想いを汲み取る事となる。
保守こそ、最低限の礼節として米国を疑うべきと思う。

反米を常にわきまえて行かなければ、先達も蔑ろにする事になる。
また、「日本の歴史と伝統」をも否定するのと同義。


つまり、欧米的な価値観に、まず疑いの眼を向ける事こそ保守の役目とも言える。
また、同時に精神論だけでもなく、先達が許される事のなかった、
現実合理の判断にて諸外国と向き合う術を追及する精神を内包してこその保守とみる。







保守の真髄 老酔狂で語る文明の紊乱 (講談社現代新書) 新書 – 2017/12/13
西部 邁 (著)
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