道なき道を行く、相撲道 -スポーツと道の戦い- 日馬富士暴行問題 備忘録
2018/04/20更新

実際、暴力や体罰的な事はあったのだろうとも思う。ただ、これも、相撲に限らずの事で、それこそ高校野球などの学生スポーツにおいても、同様の事なのだろう。
都合の良い時だけ、体罰、外国人力士の事、それこそ、“横綱の品格”を問題にしても意味がない。マスメディアが取り上げ騒いだところで、「お前が言うな!」のブーメランなのだし、これはマスメディアに限らず万事においても同様と言える。
もちろんプロフェッショナルなのだから当たり前の事で、それこそ結果を出さなければ食べていけない。勝てなければ人気も出ないし、人気が無ければ客も見に来ない。人気も無く、客も来ないなら、市場規模も小さくなるのも当然の結果で、小さいなりにしか給金としての反映もされない。
「スポーツ」の価値観とは勝利する事が大前提で、それ以外は弱い事の言い訳と思った方が良い。当然、プロなら尚の事で、言い訳ばかりをして、だらだら手を抜いているプレイヤーなど見たくもない。
が、逆にいうと、結果ありきであるから、手を抜きまくり、なおかつ出鱈目で卑怯な生き方をしてまでも、勝てばいいのだろうと「勝てば官軍」といった、良くも悪くも戦後日本的な価値観にある一定の正当性を与えてしまう事にもなっている。
だから、尚更、出来もしない「紳士たれ」や「品格」が必要だった。
本来「スポーツ」の価値観である筈のプロ野球において、嘘でも「紳士たれ」を言わなければ、米国的な「スポーツ」の価値観に「道」が完全敗北する事にもなってしまう。
ただ、これが読売球団の誤解のはじまりと言っても良いが、これは別の話。
勝つためにはあらゆるものを駆使し、圧倒的な物量により日本を屈服させようとしてきた米国。
その圧倒的な物量に対し、小さな体に秘めた、武士としての勇猛果敢な心と農民としての粘り強さといった、精神力だけで太刀打ちした日本。
もちろん日本は負けた。そもそも、精神力だけでは限界がある。勝てるはずも無い。焼け野原となり、モノがなくなった。そんな世の中では、嘘でも「紳士たれ」を言い続けなければならない。
モノがないのだから、なおの事、心であれと嘘でも言い続けなければならない。
日本も戦後復興を遂げ、バブル崩壊...云々とネット時代に移り変わり、フェイクである“紳士たれ”を受け入れられる寛容さすらなくなってしまった。
相撲は特に思うが、あのような大柄な人間同士がガチンコでぶつかり合うなら、体が持つはずも無い。当然、力士としての寿命も短くもなるし、スター力士の寿命が短いことなど、相撲ファンにとっても本望でないだろう。
相撲は日本の伝統レスリングと言い換えて良い時期に来ているのだろう。プロレスと思った方が良い。
多少は、お互いさまで忖度すればいい様に思う。また、ファンならそうあるべきと思うし、その方が“道”としての相撲が存続される。
勝ってこその「スポーツ」の価値観を向けるのならば「横綱の品格」が嘘となる。
相撲とは、武士道の価値観なのだ。結果ありきの事をいっていない。重要視されるのは精神性だ。勝つためだけにトレーニングを積む「スポーツ」とは違う。己の心身向上が最重要なのだし、結果は二の次だ。当然、卑怯な事や、嘘をついてまで勝とうとも思わない。それが、武士道の価値観なのだ。これは、本来の日本人の価値観のはずだ。
武士道とは ∼日本におけるノブレスオブリージュ∼
take0606.jp
皆、多かれ少なかれ総ブーメランなのだから。
日馬富士暴行問題まとめ -日本においての正しさとは武士道と神道を重視すること-
サイトマップ -偏向報道記事まとめ-

“道”なき者同士の戦い
ざっくりいうと
・日馬富士の暴行問題について夕刊フジが報じた
・貴ノ岩が先輩のモンゴル出身力士らを前に言い放った言葉が端緒だったという
・貴ノ岩は「あなたたちの時代ではない」と言ったそう
・日馬富士の暴行問題について夕刊フジが報じた
・貴ノ岩が先輩のモンゴル出身力士らを前に言い放った言葉が端緒だったという
・貴ノ岩は「あなたたちの時代ではない」と言ったそう
国民総ブーメラン
結局、よく分からない。実際、暴力や体罰的な事はあったのだろうとも思う。ただ、これも、相撲に限らずの事で、それこそ高校野球などの学生スポーツにおいても、同様の事なのだろう。
都合の良い時だけ、体罰、外国人力士の事、それこそ、“横綱の品格”を問題にしても意味がない。マスメディアが取り上げ騒いだところで、「お前が言うな!」のブーメランなのだし、これはマスメディアに限らず万事においても同様と言える。
真相は『藪の中』
真相は『藪の中』という有名な言葉の語源となった作品でもあり、この言葉を辞書で引くと、「関係者の言い分が食い違っていて、真相がわからないこと。」と説明されている。
『羅生門』は1950年に公開されるも、日本では不評だった。が、海外では高く評価される事となる。
ただ、何故この作品が日本では評価されず、海外で評価されたのかというところであり、それは、本来、日本人は当たり前の事として持ち合わせていた価値観が由来してのことと、僕は理解している。
一神教と多神教の話
「神の視座」が遍在
つまり、何かというと、一神教と多神教の話であり、一神教の国の人々は絶対的かつ客観的現実があると認識していて、いわゆる、それが「神の視座」なのだが、かれらは、絶対的に真実はひとつと思い込んでいる。
が、『羅生門』という作品は違った。
「絶対なんてないよ。真実なんて分かりっこないよ。」と問題提示されてしまったものだから、当時の時代背景もあいまって、世界中のインテリ層がこぞって見てしまったのだが、日本人にはピンとこない。
真相は『藪の中』という有名な言葉の語源となった作品でもあり、この言葉を辞書で引くと、「関係者の言い分が食い違っていて、真相がわからないこと。」と説明されている。
『羅生門』は1950年に公開されるも、日本では不評だった。が、海外では高く評価される事となる。
ただ、何故この作品が日本では評価されず、海外で評価されたのかというところであり、それは、本来、日本人は当たり前の事として持ち合わせていた価値観が由来してのことと、僕は理解している。
一神教と多神教の話
「神の視座」が遍在
つまり、何かというと、一神教と多神教の話であり、一神教の国の人々は絶対的かつ客観的現実があると認識していて、いわゆる、それが「神の視座」なのだが、かれらは、絶対的に真実はひとつと思い込んでいる。
が、『羅生門』という作品は違った。
「絶対なんてないよ。真実なんて分かりっこないよ。」と問題提示されてしまったものだから、当時の時代背景もあいまって、世界中のインテリ層がこぞって見てしまったのだが、日本人にはピンとこない。
結果ありきが由来している
「スポーツ」における体罰とは、結果ありきが由来していると言っていい。もちろんプロフェッショナルなのだから当たり前の事で、それこそ結果を出さなければ食べていけない。勝てなければ人気も出ないし、人気が無ければ客も見に来ない。人気も無く、客も来ないなら、市場規模も小さくなるのも当然の結果で、小さいなりにしか給金としての反映もされない。
「スポーツ」の価値観とは勝利する事が大前提で、それ以外は弱い事の言い訳と思った方が良い。当然、プロなら尚の事で、言い訳ばかりをして、だらだら手を抜いているプレイヤーなど見たくもない。
が、逆にいうと、結果ありきであるから、手を抜きまくり、なおかつ出鱈目で卑怯な生き方をしてまでも、勝てばいいのだろうと「勝てば官軍」といった、良くも悪くも戦後日本的な価値観にある一定の正当性を与えてしまう事にもなっている。
だから、尚更、出来もしない「紳士たれ」や「品格」が必要だった。
本来「スポーツ」の価値観である筈のプロ野球において、嘘でも「紳士たれ」を言わなければ、米国的な「スポーツ」の価値観に「道」が完全敗北する事にもなってしまう。
ただ、これが読売球団の誤解のはじまりと言っても良いが、これは別の話。
――良いとこ取りしようとするから...
大相撲と同様の話でもあるが、結局、「道」と「スポーツ」と「興行」の良いとこ取りをし続けてきた、高野連といわゆるリベラルメデイアの御都合主義の姿勢に問題があるように思う。
「道」とは「過程」重視
「スポーツ」とは「結果」重視
「興行」とは「利益」重視
...と、相容れるはずも無く、出鱈目な事を2018年まで続けてきてしまったが、そろそろ限界と自分もそう見ている。
大相撲と同様の話でもあるが、結局、「道」と「スポーツ」と「興行」の良いとこ取りをし続けてきた、高野連といわゆるリベラルメデイアの御都合主義の姿勢に問題があるように思う。
「道」とは「過程」重視
「スポーツ」とは「結果」重視
「興行」とは「利益」重視
...と、相容れるはずも無く、出鱈目な事を2018年まで続けてきてしまったが、そろそろ限界と自分もそう見ている。
「スポーツ」対「道」
先の大戦とは、「スポーツ」対「道」と言いかえても良い。勝つためにはあらゆるものを駆使し、圧倒的な物量により日本を屈服させようとしてきた米国。
その圧倒的な物量に対し、小さな体に秘めた、武士としての勇猛果敢な心と農民としての粘り強さといった、精神力だけで太刀打ちした日本。
もちろん日本は負けた。そもそも、精神力だけでは限界がある。勝てるはずも無い。焼け野原となり、モノがなくなった。そんな世の中では、嘘でも「紳士たれ」を言い続けなければならない。
モノがないのだから、なおの事、心であれと嘘でも言い続けなければならない。
日本も戦後復興を遂げ、バブル崩壊...云々とネット時代に移り変わり、フェイクである“紳士たれ”を受け入れられる寛容さすらなくなってしまった。
プロレスだと思っていた方が...
やはり、相撲も野球同様にプロレスだと思っていた方が良いのかも知れない。相撲は特に思うが、あのような大柄な人間同士がガチンコでぶつかり合うなら、体が持つはずも無い。当然、力士としての寿命も短くもなるし、スター力士の寿命が短いことなど、相撲ファンにとっても本望でないだろう。
相撲は日本の伝統レスリングと言い換えて良い時期に来ているのだろう。プロレスと思った方が良い。
多少は、お互いさまで忖度すればいい様に思う。また、ファンならそうあるべきと思うし、その方が“道”としての相撲が存続される。
勝ってこその「スポーツ」の価値観を向けるのならば「横綱の品格」が嘘となる。
相撲とは、武士道の価値観なのだ。結果ありきの事をいっていない。重要視されるのは精神性だ。勝つためだけにトレーニングを積む「スポーツ」とは違う。己の心身向上が最重要なのだし、結果は二の次だ。当然、卑怯な事や、嘘をついてまで勝とうとも思わない。それが、武士道の価値観なのだ。これは、本来の日本人の価値観のはずだ。
武士道とは ∼日本におけるノブレスオブリージュ∼
take0606.jp
マスメディアは「スポーツ」
マスメディアは売り上げの為に、あらゆる手段を行使してくる。もちろん、売り上げが大前提というのも理解できる。また、それも仕方のない事と思うから、なおのこと消費者も、フェイクメディアのお戯れを「スポーツ」由来のプロレスな存在が何か言ってやがるな♪位の感覚で向き合った方が良いかも知れない。皆、多かれ少なかれ総ブーメランなのだから。
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